【GATEと人】#4 教育✖️交通でもっと遠くまで、届けたい 田島颯さん – 瀬戸内ワークスレジデンス GATE|地域とつながるシェアハウス

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【GATEと人】#4 教育✖️交通でもっと遠くまで、届けたい 田島颯さん

こんにちは!瀬戸内ワークスレジデンス「GATE」のSNSプロモーターを務めている中村彩です♪

梅雨の季節ですね。せっかく髪の毛をセットしても家を出た瞬間にうねってしまって、すごくテンションが下がっています。

でもあと1ヶ月経てば夏休み。それだけを楽しみに期末レポートと格闘しています。

 

私の仕事は、SNSを通じてGATEの魅力をたくさんの人に伝えることです。

そんな私が思うGATEの一番の魅力は、ただ宿泊するだけでなく地域の人との繋がりを生み、地域コミュニティに入る玄関口になっていること。「GATEと人」シリーズでは、GATE宿泊者との交流が多く、三豊市で魅力的な活動をしている人にスポットライトを当て、その人の過去・今・未来を長編記事でご紹介しています。

第4回目は、暮らしの交通株式会社社長 田島颯さん。学生時代から全国を飛び回り、探究学習を各地の中高生に伝えてきました。そんな颯さんが三豊に移住し、交通の会社の社長になるまでにどんなストーリーがあったのでしょうか?

 

【注目!】暮らしの交通株式会社とは?

地域タクシー事業社、地元企業そして地域関連企業、計12社が発起人となり設立された、仁尾町に本社を置く交通会社。呼べば来る、エリア定額乗り放題の新たな移動手段『mobi』を仁尾・詫間エリアで提供しています。

HPはこちら!

 

わんぱく少年時代

「生まれてから最初の記憶は、幼稚園の時かな。家にあったキックバイクが好きでずっと遊んでいました。ある時、バイクでスピード出しすぎて岩に乗り上げて、そこに置いてあったお昼ご飯が台無しになって、大泣きした記憶はすごく強烈に残ってる(笑)

東京の下町で育って、少年時代はひたすら外遊びしていました。道端に落ちてるヤクルトを飲んで腹を壊したり、ママチャリでドリフトしたり。。。わんぱく少年を絵に描いたような感じ。

でも学校では真面目で、勉強も運動も頑張ってました。親からは『いいかっこしいだなお前は』とよく言われて。とても周りの目を気にするタイプでした。

習い事は10個以上やったんですけど、飽き性だから少しできるようになったらすぐにやめちゃって。ずっと続いたのは水泳と室内ホッケーとジャグリングだったかな。」

 

シーシャカフェで仕事に勤しむ颯さん

 

バスケに熱中、そしてカナダへ

「中学は普通に地域の公立に行こうと思ってたんだけど、知り合いのお兄ちゃんが行ってる私立の学校がとても楽しそうで。その頃ハイスクールミュージカルにすごいハマってて、お兄さんの学校が海外留学を義務にしているのを知って、さらに魅力的に感じました。

親を説得して受験して、無事合格。部活はハイスクールミュージカルの影響でバスケ部に入りました。僕、ハマったものはナンバーワンになるまで極めたいという欲求が強くて。小学校の時にやってたジャグリングも世界大会目指して練習してたんだよね。そんな感じでバスケにもどハマりして、ナンバーワンになりたい欲がモリモリ湧いてきて、バスケ中心の生活を送るようになりしました。

 

中学2年からは部活に追加して、地域の社会人クラブチームに参加しました。そこに中学生が参加することはとても珍しいから、チームの人たちにすごく可愛がってもらいました。

成長と共にどんどんバスケへの愛とプロになりたいという気持ちが高まる中で見つけたのが、バスケの神様と言われる”マイケル・ジョーダン”のサマーキャンプです。

『僕はプロになりたいんだ!!海外で、NBAでプレイヤーとして活躍したいんだ!』となんとか親を説得して、そのサマーキャンプに参加することができました。

でもそのサマーキャンプをきっかけにプロになるのを諦めたんだよね。歳下の現地学生が身長2メートルくらいあって、技術もあって、、、この子たちがこのまま成長したら僕はNBAで戦えないなと感じたからです。

そんなこんなでバスケのプロになる夢を諦めたんだけど、サマーキャンプで体験した海外の雰囲気はすごく好きで、海外に行きたいという思いは消えませんでした。

高校は普通科とグローバル科があったんだけど、迷わずグローバル科を選んで、そこから英語漬けの日々が始まりました。もともと要領は悪くないタイプだったので留学に必要な語学力をつけることができ、高校2年生の時に1年間カナダへ留学に行きました。

このカナダでの生活が、僕にとって一番辛い時期でした。」

 

GATEと人#2で取り上げた宮城慎梧さんと仲良しで、一時期同居してたことも

 

カナダでの挫折と気づき

「自分でいうのもあれだけど、今まで多くの友達に頼られて、学級委員長もやって、右肩上がりの人生を送ってきたんだよね。小さい頃から英会話やってるし、英検もとってるし自信満々でカナダに向かいました。

でもその自信は早々に打ち砕かれてしまって。相手が何を話しているのか全然理解できないし、話そうと思っても全然言葉が出てきませんでした。そして一番辛かったのは、理解できない中で頑張ろうとしないで、逃げてしまったことです。最初の3ヶ月は放課後すぐ家に帰って日本のバラエティばかり見る生活を送っていました。『僕、何してるんだろう。何しにカナダまで来たんだろう。』とこのままではいけないのを分かっていながら行動できない自分に凹んで、失望して。自分が大嫌いになりました。

 

毎月親が日本の食べ物を仕送りしてくれてたんだけど、海外輸送ってめっちゃお金がかかるんだよ。留学に行くっていうだけでとんでもない金額がかかってるのに、毎月毎月、欠かさず送ってくれるんです。ある日荷物が届いた時に号泣しちゃって。『こんなに応援してくれてる親のためにも自分はこのままじゃいけない』と思って、少しずつ前向きに行動できるようになったんだよね。

カナダの学校ではシーズンによってやるスポーツが変わって、普通は2~3個クラブチームを掛け持ちするんだけど、僕は7個くらい入ってた。一緒に運動する中で友達が増えて、だんだん生活が楽しくなっていきました。

 

留学前は、将来は海外でバリバリ働くビジネスマンになるんだと思ってたけど、いざ留学してみていちばん思い出すのは親が仕送りしてくれた味噌汁の味。僕じつはめっちゃ日本が好きなんだなって気づいたんです。カナダにいる時、”日本はこれからやばくなる”みたいな表面的な情報だけ聞こえてきてたんだけど、だったら僕は日本を救うヒーローになりたいな、と思いました。」

 

 

帰国から大学受験まで

「留学を終えて日本に帰ってきて、高校3年のときはビジネスの勉強に熱中してました。学校の探究学習の時間に生徒主導のゼミをやるんだけど、僕はビジネスゼミのゼミ長になって、授業を設計していました。外部と協働したいと経営大学院の説明会に乗り込んで行って、授業をしてもらう約束を取り付けたことも(笑)

ゼミ以外に熱中してたことと言えば、文化祭を運営するエンタメ委員会。うちの高校、文化祭をめちゃめちゃ派手にやるのよ。外部から業者を呼んでステージをゴリゴリに設営したりして。エンタメ委員会は文化祭を裏で支える学生部隊なんだけど、そこで裏方の楽しさを知りました。業者さんと話し合いながら、どのタイミングで音楽を流すとか誰がQ出しするかとかまで一つ一つ決めていくんです。今まで自分は表舞台で目立つ方が向いていると思ってたけど、こんな地道な作業を面白いと思うことに気づいて。この気づきと経験は今、とても生きています。

一方で、進路については悩み続けていました。高3の8月まで、日本にいるかアメリカに行くかすら決めきれていなくて。。。そんな時に知ったのがSFCです。日本にいながら、分野を横断して幅広い学問を学べるところがいいなと思いました。その時の僕は、経営に興味はあるけど経営学部にいくのはなんか違うなあと思っていて。もっといろんな分野を学びたいし、いろんな人に会いたいと思っていたので、SFCはピッタリだと思いました。

そこから急いで塾に入ってAO入試を受けたけど不合格で。その後ビジネスゼミのゼミ長もやりながら一般入試の勉強を頑張ったけど、結果叶わずでした。」

※SFC 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの略。

 

 

諦められないSFCへの思い

「第一志望のSFCには行けなかったけど、合格をもらった大学で4年間頑張ろうと思いました。でも、入学式に門をくぐった瞬間から『なんか違う』って思って(笑)

華やかなSFCでの生活を夢見て受験シーズンを乗り越えてきたから、違和感を持っちゃったんだと思う。でも、バスケとかカナダ留学とかで親にすっごくお金を出してもらってきて、大学の学費も払ってもらってるのに、『なんか違いました』とは言えないじゃん?

とりあえず違和感は見ないふりして、面白そうな居合斬り部に入ってみたりしました。

 

SFCには落ちちゃったけど、SFCの研究会であるすずかんゼミ内の"FROM PROJECT"に所属していました。学生に対して、プロジェクト活動を通じた多様な学びの機会を提供している団体です。当たり前だけど僕以外のメンバーはSFC生で、その子たちは本当に毎日充実した生活を送っていて。それを見ると『やっぱりSFCに行きたい』という気持ちがふつふつと湧いてきました。プロジェクトの先輩に『もう一回挑戦すればええやん』と声をかけてもらったこともあって、仮面浪人することに決めました。

毎週末プロジェクトで福島に通いながら小論文を過去数十年分問くみたいな過酷な生活を送って、無事合格することができました。いつもは静かな父が大号泣してて、僕も一緒に号泣したのを覚えています。」

※すずかんゼミ 元文部科学副大臣、東大教授などを歴任する鈴木寛教授が主催するゼミ。次の社会の先導者になるための”学びのコミュニティ”

 

肩書きと僕

「SFCに入学してすぐ、すずかんゼミに入りました。以前から所属していたFROM PROJECTに一層力を入れる日々。その時の代表は3年生で、次の代表として僕を指名してくれました。

当時、代表と僕はシェアハウスをしてて、背中で学ばせてもらうことも多くありました。

でも立ち返ってみると、僕は教育がやりたいからこのプロジェクトに入っているわけではなくて、その代表みたいになりたいという憧れの気持ちが動機なんだよね。比べる軸は自分でも目指したい社会でもなく、いつも代表で。

一緒に暮らす中で、代表がすごく頑張ってて、すごく努力していることがわかって、『この差、一生埋まんなくね?』ってBAD入っちゃって。

自分がやりたいことってなんだろう、教育を本当にやりたいのか?という問いになかなか答えが出せなくて。。ゼミの中では”教育をやってるFROM PROJECTのはやて”という立場があって。僕から教育取って何が残るんだろう、みたいな。

周りに意識高い学生ばかりいる環境で、肩書きなしで自己紹介する勇気もなくて。苦しいけれどプロジェクトから抜けて肩書きがなくなってる自分を想像したらとても怖くて、自分の存在価値を完全に見失ってしまいました。

 

このままではいけないと、代表と住んでた家を出て、教育から完全に離れるという決断をしました。」

 

みとよ探究部ではひとりひとりの生徒と密なコミュニケーションを。

 

自分がやりたいこと、そして存在価値

「自分が何をやりたいか分からないから、とりあえずいろんなことをやってみました。

 

本当にやりたいことを探していく日々の中で、そういえば教育をやることに納得感はなかったけど、めっちゃ楽しかったな〜と思い出して。生徒の変化が見れるのがすごく楽しかったんだよね。

教育業界ではよく、目の前の生徒をどう幸せにするかって議論がなされるんだけど、

そこからすこし俯瞰して見て、教育のシステムをどう変えていくかを考えることが必要だなと思いました。目の前しか捉えられないと自分の半径5m以内にいる人しか幸せにできないからです。

そんなことを考えてた時にゼミの先輩で教育のNPOをやってる人と話す機会があって。その団体は単に学校で授業をするだけじゃなくて、公教育全体をどう変えるかについて考えて、教員研修をしたり新しい教育法を学校で実験したりしていました。それがすごくいいなと思って、団体で修行させてもらうことになり、また教育に関わることになりました。

 

1年くらい団体で修行をして、その後は経験を生かしながらプロジェクトの旗揚げをするように。今もすずかんゼミの学生が関わっている、山口県萩市の中高生が探究学習をする部活動”萩探究部”を立ち上げたのもこの時期です。0から立ち上げてプロジェクトを軌道に乗せたという経験が僕の中ですごく自信になって、あの時見失ってた自分の存在価値も見つけられた気がしました。

すごく遠回りだったけど、自分が人生をかけてやりたいことは教育なんだ!と気づくことができました。」

 

 

三豊と出会い、移住する

「そろそろ独立しようと模索する中で、今みとよ探究部を一緒にやっている小玉さんと出会って。『三豊で萩探究部みたいな探究の部活動を作りたいんだよね』と持ちかけられて、一緒にみとよ探究部を立ち上げることになりました。これが僕が三豊と繋がった瞬間です。

萩探究部では実現までできなかった、地元の人や地域のプレイヤーを巻き込みながら、まちのことをもっと知れたり、もっと好きになる機会を提供するってところを大事にしながらプログラムを作って行きました。

同じ時期、他の地域の仕事も受けてたんだけど、コロナの影響もあり移動を減らすため三豊に移住することにしました。ニュー新橋がとても好きだから、そこにすぐいける仁尾町に住むことを決めました。移住してすぐの頃は、ニュー新橋の週3回の営業日全部通ってて、お客さんたちに『あいつ、いつもおるよな』と顔を覚えてもらって仲良くしてもらえるようになりました。」

 

なんで交通会社の社長に?

「さて、ここまでは僕が紆余曲折を経てやりたいことを教育と決めて、三豊に移住するまでの話をしたんだけど、たぶんじゃあなんで今交通の会社やってるの?って話だよね(笑)

 

ある時ニュー新橋で鈴木寛先生と、地域プロデューサーの古田秘馬さんが話をしてて。三豊のベーシックインフラ事業の新しい取り組みとして、交通会社を立ち上げようという内容のものでした。正直、僕は教育の人間だから関係ない話だと思ってたんだけど、2人から代表取締役の候補として僕の名前が上がりました。

この話を受けるかとても迷ったけど、僕の中には『もっと意見力のある人間になりたい』という気持ちがあって。教育界、そして探究教育の界隈を見渡してみた時、僕の遥か先を走るトップランナーの方々がいて、これからただ単純に教育をやっていくだけではいつまで経っても追いつけないなと思ったんです。だから、何か新しいアプローチをしなきゃいけない。交通事業者をやりながら教育をやってる人は珍しいし、何か新しいことができるんじゃないか、と思いました。あとは古田秘馬さんの元で経営を学べるなんて贅沢な機会を逃すまいという気持ちもあり、挑戦することに決めました。」

 

社長になって1ヶ月半(取材時)、今の心境

「とにかく忙しいけど、毎日が楽しいです。

社長になることが決まってからサービス提供開始までの時間は結構短くて、目の前にあることをひたすらこなしていったらいつの間にか社長になってたって感じ。今やっと落ち着いて振り返ってみて、この期間でとても視座が上がったなと思います。

 

今はいろんな人と話をしてみたい。GATEに滞在している人ともぜひ話したいです。その人の目に三豊がどう映ってるのか聞いてみたいし、何か僕が力になれることがあるかもしれません。

ぜひ、暮らしの交通の公式LINEで気軽に飲みに誘ってください(笑)

あ、あとmobiのドライバーも募集しています。そちらもぜひ!」

 

 

 

編集後記

GATEと人シリーズ4回目は、田島颯さん。

私が高校生の頃からみとよ探究部の先生で、大学に入ってからはゼミの先輩でもあって。

そんな、ずっとかっこいい背中を見せてくれる颯さんが、どんな道を歩んで今、三豊にいるのか知りたくて取材のお願いをしました。

私の想像では、幼少期からずっとイケイケで、早いうちから教育の道を志してブレずにやってきたからこそ今の活動や実績があるのかな〜〜と。

でも、思ったより壁にぶつかってた!

ちょうど今の私が悩んでいるようなことに、颯さんも同じ頃悩んでいて、なんだかとても親近感が湧きました。底にしっかり根を張ったポジティブで、苦しい状況でも絶対絶望しない強さが颯さんの魅力だと感じます。

GATEでの滞在を検討されている方だけでなく、私と同じ世代の悩める若者たちにも、ぜひこの記事を読んでほしいな〜〜!

 

私の実家の前までmobiの運行エリアが拡大されることを願って(笑)、これからも、颯さんと暮らしの交通株式会社を応援していきます♪

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